ところは江戸。
ここにひとりの将軍がいる。
「あーあ、暇だなぁ」
平和な世の中、その将軍は武芸に秀で、そのうえ頭脳明晰、容姿端麗ときている。
若いながらも老中の陣平は、正室候補を次々と将軍に勧めていた。
「興味ないから、勧めなくてもよい」
話を聞こうともしない。
あまりにもうるさいため、最近話題の高遠の桜見物に行ってしまった。
「左近様、少しはご自分の立場をわかってください」
陣平は左近とふたりきりになると口調がくだける。同じように左近は陣平であれば心の内を明かすこともあった。
「また正室の話か。毎度毎度公家の姫なんかいらないよ。俺は心に決めた女子でなくては妻にしたくない」
「しかしながら、ご身分をわきまえてください」
「しつこいぞ」
着流しに太刀といった、あの時の衣装そのままに左近は歩いている。それに付き合って、陣平もまたあの時の衣装でつき従う。
しだいに暮れゆく空のもと、ふたりは高遠藩主の屋敷の門をくぐった。
お忍びといえど、左近は徳川家の将軍。
藩主は平身低頭し、丁重にもてなした。
正直言って、こういうもてなしも左近は苦手としていた。だが我流を貫けば藩主にも迷惑がかかる。
「私どもの娘、綾女でございます」
他所を訪問すると必ずこういう風に身内の娘の顔合わせをさせられる。左近はうんざりしていた。
それでも表面上取り繕いながら、酌を受けつつ娘の顔を見る。
今までにもさんざん美人は見てきた。見飽きるくらいに。この娘も美人だが、目の輝きが違っていた。
左近はついその瞳に魅入られてしまった。
少年の初恋のように動作がぎこちなくなる。
藩主が何か言っているが、当然耳に入ることなく頷くだけであった。
左近が部屋に戻ると、若い女性が夜着を着て座っていた。綾女だ。
「父の言いつけにてまかり越しました」
先ほど藩主が言っていたのは、こういうことだったのだと、左近はやっと思い出した。
「俺でいいのか?」
「え?」
綾女は驚いたように左近を見上げた。
「見たところ、まだやりたいことがあるのではないか」
左近は綾女の正面に座った。明かりのせいか、少し顔色が青ざめて体も震えている。
夜を共にせよと急に言いつけられ、まだ少女だった綾女は何をされるかと不安で仕方がなかった。
左近は綾女の緊張をゆっくりと解きほぐすようにたわいない話をした。その成果あって、綾女の表情も少しずつ柔らかくなり、笑顔すら見せるようになった。
やがて夜明け。
「また会いたい」
左近は綾女の手を握った。綾女は驚きながらも、そっと握り返し、小さく頷いた。
- HIT記念
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