春。恋の季節。
安土の江藤の丘に、桜が満開に咲きほこる。
「こんな感じ?」
「そうね、もうちょっと右を向いて」
早朝からふたりの女性が桜を愛でている。少し離れた車に入り、服を変えて写真を撮る。
「これで最後よ」
「えー」
白のタイトなワンピースにふんわりとしたジャケットをはおり、桜の幹に頬を寄せる。
通りかかった長身の男性が足を止めた。桜のそばの女性をじっと見つめる。女性も男性を見て、微笑んだ。
男性…左近は、女性が去ったあとも呆然と立ち尽くしていた。女性が頬を寄せていた桜に触れる。なんとなく甘い香りがするようだった。
いつの間にか仕事を終えて帰宅していた。仕事で何か大事なことを言われた気がしたが、もう覚えていない。
「左近」
「左近?」
「はっ?」
「はっ、じゃないよ。昨日から何だ、上の空じゃないか」
「ああ、悪い。で、何だっけ」
蘭丸がため息をついた。
「だから!お前が書いている小説のカバー写真が決まったんだよ。外伝の方な。お前の相手役」
「そういえば言っていたな」
「で!今日は撮影なの。お前と彼女の。喜平次、何とかしてくれ」
左近の前に写真が置かれた。左近は目を見張った。あの女性だ。
「この人、どういう人だ?」
「うちでカメラしている桔梗の友達で、香澄綾女という。モデルの経験はないが、桔梗がカメラマンとしてデビューしたときに、彼女を被写体に使ったんだ」
「………」
「左近?」
いつもクールで通している左近の顔が違った。真剣な顔だ。
「そうか、わかった」
喜平次は察してニヤリとした。
撮影場所は昨日と同じ江藤の丘。マイクロバスが2台出ていた。左近が衣装を変えて車外に出ると、女性ももう1台から降りてきた。昨日の女性…綾女と再会する。
「はじめまして。香澄綾女です。よろしくお願いいたします」
「日向左近です。こちらこそよろしくお願いします」
昨日の桜の木の下に並んで立つ。ふたりとも本編炎情の章で描かれた衣装。
「表情がよそよそしいから、ちょっと話してみて。5分後再開」
注文が入る。外伝は、本編で語られなかった左近と綾女の恋の話も入っている。ストイックな本編に比べて情を盛り込ませたかった。
「難しくて慣れないな」
左近は苦笑した。
綾女は深呼吸をしてゆっくり目を開けた。その顔はやわらかな女性の顔になっていた。
「本編と外伝を何度も読みました。主人公と名前が同じでびっくりしたけれど、そのぶん感情移入していました」
「あなたは俺の綾女のイメージにぴったりです」
「私も、左近のイメージがあなたとぴったりで驚きました」
「名前で呼びあえば…撮影の間だけでもイメージに近づけると思う…」
「はい」
「綾女」
「…左近」
名前で呼ばれて、左近は恋に落ちた。昨日初めて見たときは、一方的な一目惚れに過ぎなかった。だが今は、わずかな時間だが共有している。
「再開するよ」
注文が次々に入る。寄り添って立ったり、桜の幹に寄りかかって身を寄せたり、綾女の膝枕で左近がうたた寝をしたり、抱き合ったりした。
そしていつしかキスをしていた。
「はい、終わり」
抱き合ったポーズで声をかけられ、ふたりは離れる。何枚も多方向から写真を撮られ、綾女は少し疲れていた。
「今日はありがとうございました。私、慣れていなくて、左近…日向さんが上手に導いてくださったので、とても助けていただきました。ありがとうございました」
少し紅潮した顔。
「少しの間だったけれど、俺がイメージしていた外伝があなたの助けで形にすることができ、感無量です」
「そんなこと…嬉しいです」
綾女はにっこり笑った。
そこで綾女は別れた。
数日後、カバー写真が出来上がった。桜の幹に寄りかかって身を寄せ、手を握りあっているシーン。
「やっぱりこの1枚だな。このくらい打ち解けて、握りあった手は絆を感じさせる。そういえば、ワンシーンリクエストしなかったものがあったぞ」
左近に渡された写真は、キスをしていた。
「え、そうか?」
無理矢理ではなく、お互いに気持ちを通じさせてからのキス。綾女に恋して求めたキス。
「だいぶ感情移入したのか、雰囲気に飲まれたのか、気持ちが通じあっているのかはわからないが、どう見ても合意だな。これは俺からのプレゼントだ。綾女にも送った」
「蘭丸、連絡先を知っているのか?」
左近の真剣な顔に蘭丸は目を丸くした。
「正確に言えば、桔梗に渡してと頼んだ。連絡先までは知らないんだ」
「そうか」
うなだれる左近。蘭丸は黙って軽く肩を叩いた。
翌日。同じ場所に行くと、あのワンピースで綾女がいた。
「綾女」
綾女は聞こえないのか、幹に頬を寄せる。左近が近寄ると身をかわして少し離れる。
綾女は寂しく微笑んだ。
「私は撮影の間、あなたに恋をしていたわ。でも心の中に大事にしまっておきます。すてきな思い出をありがとう」
綾女は涙をいっぱいにためながら、なんとか微笑もうとしていた。
「だめ…あなたが好き…左近が好き」
頬を涙が伝う。左近は綾女を抱きしめた。あのとき以上に愛おしく離しがたい存在になっていた。
「勝手に何を言っているんだ」
「今ならまだ間に合うもの、急に幸せになって怖くてたまらないから」
「怖くない、事実だよ。俺も綾女が好きだ。一目惚れだよ」
「そんな…」
「もうしゃべるな」
綾女の唇をふさぐ。あの時のキスとは比べ物にならないほど、熱くて濃いキスを何度もした。
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