綾女の泣き顔。
一番させたくない顔なのに、なぜさせてしまっているのだろう。
熱かった体が、だんだん熱を失ってきたのがわかる。呼吸がゆっくり、間隔が空き、綾女の顔が見えなくなる。
あたりはとても静かだ。
綾女…。
あの雪の蓬莱洞で、重ねた唇の柔らかさ、甘さ、温かさを鮮明に思い出す。かなり動揺し、恥ずかしそうな綾女が可愛らしくて、頬を叩かれてもなんとも思わなかった。むしろ、さらに愛おしさが増した。
見上げていた綾女を、いつの間にか見下ろしていることに気づいた。その先に自分が倒れている。とうとう死んでしまったのか。綾女が泣きじゃくっている、その肩を抱きしめたいのに、今は見ていることしかできない。
「左近」
綾女が声をかけている。俺の手を握り、頬に当てて温かさを与えようとする。
「まだ、私の気持ちを伝えていない。まだ…」
綾女が唇を重ねる。俺の唇はもう冷たくなっている。それでも繰り返し温もりを与えた。
「好き…」
その様子を見下ろしていた。今すぐ肉体に戻り、綾女を抱きしめたかった。もどかしい。何もできないのか。
綾女の気持ちがはっきりしたのに、俺はそれになぜ答えてやれないのか。
綾女、俺もお前を愛している。今一度、その温もりを感じたい。
…不意に寒くなった。手と唇は温かい。綾女が懸命に温めてくれているからだ。これは肉体に戻れたのか?
鼓動が感じられる。少しずつ体の熱が戻ってくる。傷の痛みが出てきた。
「左近」
懐かしい、愛おしい声が聞こえる。ずいぶん長く眠っていたようだ。なかなか体が動かないし、目も開かない。まだ眠い…。
綾女を抱きしめ、唇を味わう。恥ずかしそうにするが、きちんと応えてくれる。可愛くてたまらない。
急に覚醒した。甘い夢を見ていたようだ。近くの空き家の中らしい。体を動かそうとして、傷の痛みにうめいてしまう。
「俺は、生きている」
嬉しいことだ。傷の痛みなんて大したことではない。綾女を探した。
「左近」
薬湯を持ってきた綾女が気づいた。お椀を落としそうになり、よろめきながら座り込み、俺に背を向け、肩を震わせている。嗚咽が漏れ聞こえる。
「綾女。こちらを向いてくれ」
あふれる感情を落ち着かせようと、何度か呼吸を整えている。涙を拭いてやっと振り返る。
「安心したら急に…」
言いながらまた涙ぐむ。
「左近…」
そばにすり寄る。俺はやさしく髪を撫でた。
「もう会えないかと思った。一度息が止まって冷たくなったから…」
「そうだったのか」
少しずつ綾女が落ち着いてきた。
「具合はどう?」
「傷が痛むが、大したことはない」
「我慢強い…なかなかの怪我なのに」
薬湯を持ってきた。
「体、起こせる?」
「いや無理」
即答していた。
「今までしてきたように頼みたい」
綾女が真っ赤になる。意識がなかったから、口移しで薬湯を飲ませてきた。日に何度も。
「目を瞑っていて」
綾女が口移しで薬湯を飲ませる。柔らかい唇も味わう。綾女の瞳が熱を持ってきた。
「駄目よ左近、薬だけ、飲んで」
吐息も甘い。やっと飲ませ終わる頃には、綾女が火照っていた。俺はたまらなくなり抱きしめた。痛みは大したことはない。綾女に触れられるのが嬉しい。
「もう!動けるじゃない!」
軽く怒られた。怒った顔もかわいい。
あの日から数日経っていたようだ。やはり一時的に俺は死んでいたらしい。それでも諦めずに綾女が適切な処置をしてくれたおかげで、傷の治りが早く、発熱することもなく、やがて完治した。
「体力落ちたな。筋肉も痩せた」
鍛錬を再開する。息が上がったり、俊敏さが足りないが、それもしばらくして戻った。傷の攣れは若干気になるが、そのうち慣れてくるだろう。
ふたりの距離がずっと縮まった。手の届くところにいる。一日に何回でも俺は綾女を抱きしめ、唇を味わう。綾女もうっとりと身を預ける。
初めて心から愛した。人生のすべてを捧げてもよい伴侶。これは照れ臭いから綾女には言わないでおく。
秋風が吹くころ、俺は綾女を抱いた。ずっと抱きたかった。蓬莱洞で綾女の唇を奪った時、本気で抱こうとしていた。恥ずかしそうな顔を一瞬見て踏みとどまった。
大事な綾女だから、怖い思いはさせたくなかった。
理性と本能の狭間で俺は苦労したが、何とか綾女を怖がらせることなく優しく抱けたと思う。綾女は俺に全て委ねてくれた。さすがに受け入れた時は体に力が入ったが、それでも俺を気遣い、甘い声を上げてくれた。
「左近、好き」
まだ上気した頬と潤んだ瞳で綾女が言ってくれた。俺は綾女を抱きしめた。
「俺もお前を愛している」
積年の想いがやっと実を結んだ。
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