前を行く女からほのかに懐かしい香りがしていた。
客間に通され、部屋を出ようとする女に左近は声をかけた。
「そなた、名はなんと申される?」
女は答えた。
「綾女、です」
左近は思わず綾女を抱き寄せていた。この髪の匂い、間違いない。
「何を、なさいます」
抗う声に左近は我に返った。
「すまない、つい懐かしくて」
綾女は左近の腕から身を翻し、部屋を出て行った。
あの体、あの声、間違いなく綾女のはずだった。
程なく現れた橘は、左近の様子を見て綾女について話しはじめた。
「1年ほど前になりますが、安土で崩落事故がありましてね、私が親しんでいた者の近くだったので行ってみました」
綾女は半分土砂に埋もれて倒れていた。生きていたため、すぐに自宅に運んで看病をした。
「左近・・」
うわごとのように左近の名を呼んでいた。外傷はあちこちにあったが大きくはなく、傷はすぐに癒えた。意識が戻っても、その当時のことを覚えておらず、やむなくここで働いてもらうことになった。
「あれほど呼び続けていた人の名前を聞いても、何も覚えていないようなのです。そうですか、あなたが左近殿でしたか」
橘は辛そうな顔をした。
「左近殿、申し訳ない。綾女は、妻なのです」
左近は目を閉じた。
もっと早くに見つけ出せていたら・・・。
「そうでしたか」
それしか左近には言えなかった。
1年。あまりにも長すぎる時間だった。
- あの時代
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