ヒグラシが鳴く。
その声は里にいた頃の懐かしさをつれてくる。
暑い日ざしもようやく傾き、辺り一面が橙色に染まる。
その色を受け、綾女は歩いている。そしてその傍らには長身の男。傷を負った身なのか、いささか足元がふらついている。
「大丈夫か」
凛とした声は、綾女。
「あと半里ほどで里に着くが・・・。少し休むか?」
男は黙って手で制した。ただでさえ無口な男がさらに無口になっている。綾女は黙って路傍の石に男を座らせた。そして竹筒に入った水と丸薬を差し出す。
「かたじけない」
「何を今更」
綾女は微笑んだ。その優しい微笑に男もつい微笑んだが、すぐに表情をなくした。
「笑った」
綾女はその微笑を見逃さなかった。
「左近、やっと笑ったな」
左近はどう反応したらいいものやらうろたえ、丸薬と水を飲み込んだ。あれ(安土の戦い)以来、綾女は少し女らしく素直になっていた。左近は勢いで告白したものの、無事に生き延びて告白のフォローをどうしていいのか迷っている。怪我を負ったのは不幸なことではあったが、その怪我を通じて何とか綾女と会話がつなげられた。
夕焼けの色が濃くなっている。
「少し楽になった。行こう」
左近がゆっくり立ち上がると、綾女は自然と体を支えた。そのさりげない仕草にも左近は嬉しく思う。綾女といられるだけでも嬉しいのだ。
「左近。ひとつ聞いていいか」
綾女がじっと左近を見つめている。その瞳から目を離せずにいると、聞いてきた。
「お前が言っていた、男と女の挨拶とは何だ?」
「そ、それはだな・・・。あー、もう暗くなるな、急ごう」
左近はごまかしつつ歩き始めた。あとを綾女が追う。
「何だ左近、急に足取りが速くなったじゃないか。ちょっと!」
照れ隠しに左近の足はどんどん速くなる。綾女も負けじと追い、すぐに里に着いた。まだ日は落ちていなかった。
湯に入り、傷の手当を終えると左近は縁側に出て涼をとった。すでに日は落ち、いくらか涼しい風が吹いている。
その風に乗って優しく甘い香りが仄かにした。綾女の香りだった。
髪を下ろし、夜着のままで近づいてくる。
「いい風が吹く」
「ああ」
髪を下ろした綾女は美しかった。思わず抱き寄せたくなる。それは左近の男としての本能。
「先ほどの答えを知りたい」
綾女はまだ覚えていた。何となくドキドキするような言葉だと感じてはいたが、具体的にはわからなかった。
「男と女の挨拶、か」
左近は無理やり視線を綾女から外した。その実、意識は綾女にある。
「言葉では言い切れないな・・・目を閉じてよく考えてみろ」
綾女は左近を見上げた角度のまま目を閉じた。桜色の柔らかい唇。一度味わった唇は、甘みを増しているようだった。
「ん・・・」
綾女は熱いものが自分の唇に絡まるのを感じた。以前にも同じ唇が重ねられたことを思い出した。
あの時と比べるとなんと甘いことか。綾女が軽く口を開くと、左近はさらに深く唇を重ね、舌を入れて絡めた。
「は・・あ・・・」
やっと離れた二人。綾女の瞳が潤んでいる。
「これが・・あいさつ・・」
「そうだ」
綾女が想像していたより、甘美なもの。これだけのことで綾女は潤ってしまう。左近は綾女の髪をなでた。
「この怪我が治ったら、挨拶の先を教えよう」
綾女は可愛らしく頷き、自室に帰っていった。
挨拶の先とは・・・何かしら・・・
さらに甘美なものであることは想像できていた。
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