時は移り、新緑が眩しい季節になった。しかし家の中は明るさを失い、沈んだ雰囲気に包まれたままだった。
義母はすっかり元気をなくし、ため息ばかりついている。義父は気丈だが、それでも寂しそうな表情は隠しきれるものではなかった。
綾女は自室から左近がよく座っていたベンチを見ていた。
もうすぐ1年。綾女が落としたリボンを左近が届けにきたときから、ふたりには特別な感情が芽生えたのだった。
「そう、こうして・・」
綾女は窓辺で目を閉じる。左近の大きい手が綾女の体をそっと包み、向かい合う。発つ前の左近。綾女の頬に口付けを落としていった。
そっと目を開けても、左近はいない。
少し玄関が騒がしくなった。
「何かしら」
綾女が出て行くと、そこには紳士がひとりいた。
「あなたが、綾女さんですか」
その紳士は左近の上司で、同じ船に乗っていたと言った。
「夜中のことでした。船に氷山がぶつかり、沈み始めたとき、女性と子供から救命ボートに乗っていったのです。男はその次と言われましたが、どう見てもボートの数が少なく、私も左近も船と運命を共にするしかないと覚悟を決めました。私には妻子がおり、左近には婚約者がいると聞いていました。いよいよ船が沈む直前、ボートにひとり乗れると聞こえ、とたんに左近は私をボートに突き落としたのです。私には待っている妻と子供がおり、養うのは私だ、自分には許婚はいるがまだ結婚はしていないと言ったのです」
綾女は俯いたまま話を聞いていた。
「では、左近は沈んでいく船に残ったのですね・・」
上司は頷いた。
「けれど、船が沈んだあと救命ボートが一隻現場に戻り、数名救助したと聞きました。遭難現場には別の船が救助に来てくれたのですが、私はボートに移る際に足を骨折していたので、左近がいるか確認しに行くことができませんでした。こちらを・・預かっていました」
よれよれになった便箋が1枚差し出され、綾女は受け取った。
綾女へ
俺はもう帰れないかもしれない。もしものことがあれば、綾女は実家に帰ってほしい。俺に義理立てする必要はない。
愛している。
急いで書いたのだろう、字が乱れていた。
「ありがとうございます・・」
綾女は懸命に涙をこらえていた。
「綾女さん。左近の手紙のとおり実家に帰ってもらえないかね」
義父が話を持ちかけてきた。
「まだ綾女さんは左近と結婚はしていないのだから、私たちと一緒にいることはない。あなたはまだ若いのだから、これからのことを前向きに考えてほしいのだよ」
「悲しむのは、私たち年寄りだけで十分ですよ」
「いえ・・」
綾女は首を横に振った。
「もう少しだけ、ここで左近を待っていたいのです。きっと戻ると私は信じたいのです。お願いします」
頭を下げる綾女を義父は許した。
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