これは、残照4の続きです。
2度目の鳳来洞から戻り、綾女は安土の町を見下ろしていた。
体のあちこちに左近の余韻が残っている。
なぜ、左近は来ないのだろう。
あれからひと月以上たつ。
「おんしが説得したんじゃろう。何をやっておるんじゃ、左近は」
龍馬はイライラしながら矛の手入れをしていた。
「左近はそう言っていたが、あてにはできぬかもしれないな」
その時、綾女はこみ上げるものを覚えた。龍馬にわからないようにその場を離れる。
「あ・・まさか」
本能寺に左近は来ず、6月15日。
安土に綾女はいた。体調は優れなかったが、左近がいない今、龍馬に迷惑をかけるわけにはいかない。時々吐き気とめまいはあるものの、何とかなりそうだ。
仁王門に着くと、喜平次が待ち受け、かかってきた。それを太刀で止めた者がいた。左近だ。
「ここは俺に任せろ。行け」
久しぶりの左近に一瞬甘い想いを抱いたが、ここは戦場。表情を引き締めるとその場を左近に任せた。
黒き魔神につかまれた体。自然とかばってしまう。三刀の光が魔神を消し去った。
「よくやったな、影忍」
「お前が蘭丸か」
蘭丸は、ん?と綾女を見た。そして吐き捨てるように言った。
「散々命を奪ってきた影忍が・・。子を宿しておるとはな」
綾女は蘭丸を睨みつけた。
「朧衆もお前が最後の一人というわけだな。ならばお前を討てばそれで済むことだ」
「笑止な。腹の子ごと死ねぃ!」
蘭丸の赤い瞳が見開くと綾女は飛ばされた。かろうじて倒れずに踏ん張る。綾女は妖刀をかざし、その光は蘭丸を覆い尽くした。だが、蘭丸には効かなかった。
「その妖刀は我には効かぬ。我が作りしもの。冥府魔道を開く手立てのうちに妖刀も影忍も、すでに入っておったのだ」
綾女は耳を疑った。では、何のために自分はここまで来たのか。すべて、里が滅んだのも自分が男に身なりを変えて仇討ちを続けてきたのも、すべてこの蘭丸の思惑どおりだったというのか。
「戯言を、戯言を言うなー!」
再び妖刀の光が蘭丸に向けられるが、蘭丸は薄く笑いを浮かべたままだった。
「愚かな、影。成仏せい!」
蘭丸が刀を抜き、綾女に切りかかる。左近の太刀がそれを止めた。
「まだいたのか」
左近は満身創痍であった。腹から出血もしている。
「お前の相手は俺がする」
「この死にぞこないが」
蘭丸は左近と太刀を交えるが左近のほうが数段上だった。石垣の上に逃げ、左近を見下ろす。左近は血でむせ、地面に手をついて肩で息をした。
「左近!」
綾女が駆け寄る。蘭丸は冷ややかにそれを見つめていた。
「何をしてももう遅い。500有余年の冥府魔道が開かれる。もう何者にもそれを止めることはできない」
勝ち誇った笑いを浮かべる蘭丸に、龍馬の矛が突き刺さった。
「同じことをすれば閉まるじゃろうが。左近、綾之介、俺ごとこやつをやれぃ!」
「龍馬殿!」
龍馬の体が飛び、下の二人から妖刀の光が龍馬を覆った。
開かれつつあった冥府魔道が、龍馬を飲み込んで急速に閉じていった。消える瞬間、龍馬の矛が最後の光を放った。
「閉じてゆく、冥府魔道が閉じてゆく。左近」
綾女が振り向くと、左近は地面に倒れこんでいた。
「左近!」
たださえ色の白い左近がすっかり血の気を失っている。それほど出血はひどくもう流れ出る血も枯れ果てようとしていた。
「やったな・・綾女」
「左近・・」
綾女は左近の命がもう限られていること、長くないことがわかった。
左近の瞳が優しく綾女を見つめている。
「左近、私・・」
綾女は左近の手を自分の下腹部に当てた。左近は綾女を見つめた。
「あなたの・・子が」
「綾女・・すまぬな・・」
左近は微笑を残してそのまま永遠の眠りについた。綾女は左近の手を頬に当て、涙を一筋流した。
「左近、あなたの命、この綾女が確かに継ぎました」
いつまでも泣いていてはいけませんね・・・。
それから何年もたち、綾女は病床にあった。
「母上、具合はいかがか」
左近にそっくりな少年が綾女のそばに座った。
「今日はとても具合がいいのですよ」
綾女はゆっくり体を起こした。少年が体を支える。綾女はもう三十路近かったが、凛とした美しさは変わらなかった。
「伊織。頼みがあります」
綾女は伊織に支えられながら、あの安土以来足を踏み入れなかった場所に立った。すでに13歳の伊織は、綾女の背を抜いている。
「左近、あなたの子、伊織ですよ」
綾女が見ている先には、小さな石がいくつか積み重ねられていた。
「伊織、ここにあなたのお父様が眠っているのです」
「父上が・・」
伊織もその石の辺りを見た。
左近、あなたに会いにきました。
綾女の横顔がまるで恋人を慕うような愛らしさに満ち溢れており、伊織はふたりが心底想い合っていたことがわかった。
綾女は帰宅すると疲れからか、熱を出した。少しずつ綾女の体から命が流れ出していく。よく左近の夢を見るようになった。
その朝。綾女は伊織を呼んだ。
「伊織。よく顔を見せて」
伊織の長い茶色がかった髪、綾女似の黒い瞳、整った顔立ち。まだ幼い顔だが、成長するにつれ左近に似てきている。性格もどちらかといえば左近に似ている。
「母上?」
綾女は厳しく優しい母だった。鍛錬、勉学、物の道理には特に厳しかったが、愛情深く伊織を育てた。亡くなった左近のことは話すことはなかった。それがこの頃になって少しずつ話すようになっていた。
伊織は不安にかられていた。
「どうなされました」
「この頃、お父様の夢をよく見ます。もう少しあなたのことを見ていたかったけれど・・」
「母上、何を・・」
「伊織。わかるのですよ・・」
綾女は微笑んだ。
「私が亡くなったら、先日の安土に埋めてくださいね。お父様のそばに。私の願いはそれだけです」
伊織は見る見るうちに涙をその瞳に浮かべた。綾女は細くなった手を、伊織の頬に当てた。
「泣かないで。私はいつもあなたを見守っていますよ」
綾女は伊織を見つめた。綾女には左近が見えていた。生前のあの自信に満ちたような顔。
綾女は大きく息を吐くと、伊織に当てていた手がポトリ、と床に落ちた。
「母上・・・母上!」
伊織は綾女の手を握り、声を出さずに泣いた。
安土。小さな塚の隣にもうひとつ塚が作られた。
伊織はそこで佇んでいた。ふと目をあげると、自分にそっくりな男が立っていた。そしてその隣にはずっと若い綾女がいた。伊織にはわかった。綾女は時を越えて左近にやっと会えたということが。
「母上、父上に会えたんですね・・」
二人はにっこりと笑ってゆっくりと消えていった。
伊織はそのまま、後ろを振り向かずに安土山を下っていった。
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