山あいの香澄の里に、遅い春が訪れた。桜が満開になり、早く咲いた木からは早くも花びらが舞いはじめている。その若木の下に少女が立ち、花びらを見つめている。
「誰?」
かすかに風が変わったのを少女は気づいていた。明るい色の髪を長く伸ばした青年が、少女の後ろに立つ。
木の幹に背を預け、少女は青年を見上げる。
「美しい面立ちだ」
青年は少女の顎に指をかけて見つめる。少女はくすりと笑った。
「そのような戯れを」
艶やかな黒髪が揺れ、少女は姿を消していた。
大樹になった同じ桜を綾女は見上げていた。
「あの時に左近と初めて会ったのね。翌年には里がなくなってしまったけれど、この木だけはまだ花を咲かせてくれていた」
かすかに風が変わる。
「左近、来てくれたの」
綾女を後ろから抱きしめる左近。愛おしそうに綾女の耳にキスをする。
「来たさ。初めて綾女に会った場所だ」
綾女はくすぐったそうに肩をすくめ、後ろを振り返る。左近と見つめあい胸に顔を埋めた。綾女の髪を左近は撫でる。お互いに愛し合い、なくてはならない存在。一陣の風とともにふたりは姿を消していた。
安土の戦いから数十年。すでに影忍の姿はなく、江戸の世に移り変わっていた。
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