ようやく秋風が吹く季節となった。
里の外れの小さな家で、綾女は空を見上げる。
その横顔はあの頃と変わらず美しい。
身のこなしが少しだけゆったりとしてきたが、まだまだ三十路といっても十分通用する。
艶やかな黒髪の中に、数本白いものも入るようになってきた。
時は徳川の世に移り変わっていた。
綾女は風の中に気を感じた。
…久しぶりだな
その気は、もう数十年感じていなかった、あの人のものだった。
「左近」
口に出すのも数十年ぶりの、名前。
綾女は縁側に腰掛け、目を閉じる。
あの頃のように激しい恋情はないものの、左近の声は優しく綾女を包み込む。
…久しぶりに会いたくなった
「何を、いまさら」
綾女は軽く微笑を浮かべる。
「母上?」
いつしかうとうとしてしまったのだろう、綾女は目を覚ました。
左近そっくりの青年が目の前に立っている。
あの蓬莱洞と、襲撃前夜に左近の愛を受け入れた。翌年に産み落とした、左近の忘れ形見。
綾女は青年を見上げた。
左近が亡くなった年齢よりは数年若いが、声も容貌も瓜二つ。性格だけは堅気だった。
「風が冷たくなってきました。さぁ、中に入りましょう」
促されるままに綾女は家に入る。
黄昏色に染まりつつある夕景に、綾女はもう一度左近の声を聞いた気がした。
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