少し離れた場所で綾女は眠っていた。
日の光をわずかに顔に受け、閉じた目のふちには絹のような睫が影を落とし、唇はかすかに開いてかぐわしい息を漏らしている。寝顔そのものはまだ少女のようだ。黒髪からは、先ほどの甘い香りが漂っている。
「やはり、綾女、そなただったのだな」
左近はすぐにでも抱きしめたい衝動に駆られたが、眠りを妨げてはいけないと寝顔をじっと見つめていた。その表情は今までになくやさしく、口元には微笑みさえ浮かべていた。
やがて日の光が綾女の顔を照らすと、眩しげにゆっくり目を開けた。手で光をさえぎり、体を起こした。とたんに目の前の左近と目が合った。
「綾女」
身をかわす間もなく、綾女は左近の腕の中にいた。綾女は今の状況をどうしていいかわからず、体を硬直させていた。
・・こいつ、邪気はないがいきなりこうするのは何故だ?誰だろう・・
左近は腕の中の綾女が警戒を解いていないのに気づき、力を緩めた。
「お、お前は、何故このようなことをするのだ」
綾女はすぐに離れて問いかけた。左近は、綾女が照れているのだろうと気にもしなかった。それよりも何故自分が、瀕死だったはずの自分がここにいるのかを聞きたかった。
「お前、何故私の名を知っている?」
綾女は香澄の里を離れてから綾之介として通している。里の人間はみな死んでしまったため、本名を知る者はいないはずだった。しかし、目の前の男は綾女と呼んでいる。
・・私が本名を明かすのは、よほど気を許した時だけだろう。私は、この男を知っているのか?・・
「お前が教えてくれたのだ。香澄の綾女とな」
左近は不審に思った。とぼけているのではなさそうだ。
「俺は左近。左近という」
「左近…」
・・ああ、この声だ。この声に呼ばれて俺は目が覚めた・・
感情があふれそうになったが、綾女の言葉で一気に冷えた。
「済まぬ。初めて聞く名だ。おぬしは私を知っているようだが、私には覚えがない」
本当に申し訳なさそうな、か細い声だった。
- あの時代
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