数日旅を続けてある里に二人は入った。
久しぶりの安らげる雰囲気だった。
深夜。
人がみな寝入った時に、綾女は風呂に入った。旅のほこりを洗い流し、ゆったりと湯に浸かる。
道中何もなかったが、綾女は少しずつ左近のことを思い出していた。
そこへ気配をさせない男、左近が湯に入ってきた。もちろん綾女が入っていることを十分に承知している上である。
「静かだな」
ささやく左近の声。それは綾女の耳元で聞こえた。
「えっ」
体を硬直させる綾女。それは驚いたことと、左近の臨終のときのことを思い出したからだった。
体から血を流し、地面に横たわる左近。
掻き消えそうになる命を奮い立たせ、綾女に微笑みかける。
「月が、まん丸だぜ・・」
そう、煌々とした月が天高くかかっていた。
左近に目線を戻すと、もうその目も唇も閉じていた。
その時に自分の、左近に対する思いを知った。
現れた老婆に、自分の記憶と引き換えに左近を蘇らせることを誓った。
「左近…」
「どうした」
いつもならすばやくよけて怒る綾女なのに、動かない。
「あ・・」
綾女の目からほろほろと涙がこぼれた。
「思い、出した・・。左近…」
綾女は自分の肩を両手で抱いた。左近はその細い体を黙って抱き寄せた。
「左近が死んでしまって、私は自分の気持ちに気づいた。左近の声を聞きたい、風を感じたい、ぬくもりを感じたいと。そして妖魔だろう老婆に自分の、左近に関する記憶を失くす代わりに、私の願いを叶えてもらった」
「妖魔だと?」
左近の声に怒気がこもった。
「でも、致し方なかった。あのままでいたら私は自分の心さえも殺して妖魔だけを狩っていくしかなかった。あまりにも、さびしかったのだ。私は愚か者だ」
綾女は左近から離れようとした。
「行くな」
左近は正面から痛いほど綾女を抱きしめた。
「俺は、お前にまた会えて嬉しい。愚かだとは思っていない。また言うことができる」
綾女は左近を見上げた。
「愛している」
そういって左近は深く何度も綾女と唇を重ねた。
「ん・・」
不慣れな綾女は苦しかった。そして今更ながら自分たちの姿を見て顔が真っ赤になった。それもそのはず、入浴中の生まれたままの姿。
「あのっ、湯冷めする」
色気のない抗議をし、左近もそれ以上ことを進めるのは綾女にとって酷なことだと、ようよう理解してくれた。
左近はふと空の月を見上げた。
「満月の夜に、お前を抱く」
そして湯から上がっていった。
あとには固まっている綾女がひとり。おびえたように空を見て呟く。
「明日には満月じゃないか・・・」
- あの時代
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