「綾女」
低くて甘い声が私を呼ぶ。
「あ、左近、こっちよ」
人ごみの中で背の高い男性を見つけて、私は手を振った。
「待ったか?」
「ううん、ぜんぜん。たまには外で待ち合わせるのもいいわね」
「そうだな」
自然と手が触れあい、握り合う。
私は習っていたお茶の先生が鎌倉に越したため、引っ越し祝いをしに来ていた。左近は新宿のお友達とやらと何やらお遊びをしていたらしい。
そんなこんなで今日、鎌倉の梅見をすることになった。
鎌倉街道を進むと、突き当りに宝戒寺がある。枝垂れ梅の名所で、よい香りが漂う。本堂の脇には水琴窟があり、柄杓で水を垂らすとキンキンと軽い音が聞こえた。
「いい音ね」
平日のせいか、境内には人が少ない。日当たりもいいので、縁側に腰を掛ける。
「静かだな」
あの時と同じイントネーションで左近が呟く。
「そうね」
左近の腕が私を抱き寄せようとしたときに、団体のオジサマオバサマが入ってきた。
「次、行こう」
「あ、ああ」
残念そうな左近。
江ノ電に乗り、長谷で降りる。
花の寺ともいわれる長谷寺は、年中さまざまな種類の花が咲き乱れている。
蝋梅と水仙の濃厚な香り。梅、椿…。
展望台からは鎌倉の海が一望できるが、風が寒い。自販機でコーヒーを買って飲む。
「綾女の香りに似ている」
後ろから左近が抱きしめながら、私のうなじに顔を寄せた。
「何が?」
「水仙かな、いや、綾女はもっと甘くて華やかな香りだな」
周りにカップルはいるけれど、こんなに寄っているカップルはいない。私は少し恥ずかしくなって離れようとした。
「左近てば、もうちょっと離れられる?私身動きが取れないよ」
「何言っているんだ。寒いだろう?」
左近の力はますます強く、私を抱きしめてしまった。
「あ、ねぇ、そろそろ行かないと。新幹線に乗り遅れちゃう」
「そんな時間か。あー、そうだな」
やっと左近が離れてくれた。
帰宅後。
汗ばんだ私のうなじにキスをしている左近。
「やっぱり、綾女の香りが一番だな」
乱れたシーツの上に黒髪を広げて、私は息を整えていた。
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